誠之館について

誠之館の由来と誠之館 兵庫道場について

誠之館館長 椎屋正文誠之館館長 椎屋正文(教士八段)

「誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり。」
孟子の言葉より 「臣下として君主の信任が得られないようでは、人民を治めることができない。
君主の信任を得るには道がある。
友人に信用されないようでは君主に信任されえない。
友人に信用されるには道がある。
親に仕えて喜ばれないようであれば友人に信用されえない。
親に喜ばれるには道がある。
わが身に立ち返って誠ありと言い得ないようでは親に喜ばれえない。
わが身に誠ありと言い得るには道がある。
善とは何かが明らかでないようでは、身に誠ありとは言い得ない。
すなわち誠が万事の根源であって、誠は天の道であり、誠ならんことを思うのは人の道である。
至誠をもって感動せしめ得ないものはなく、誠ならずして感動せしめ得るものではない。」

と、政岡壹實先生が、居合人に最も大切な道として大切にされた孟子の教えを取り命名されたのが「誠之館」です。
政岡先生が関係する誠之館は金沢と高知にありますが、誠之館兵庫道場は政岡先生から道系を継承された高知の野田亨先生のお許しを得て、平成三年にその名前を分けていただいたものです。

一つの流れの中で

無雙直傳英信流居合兵法は、今をさかのぼること400年以上前の室町時代に、奥州(今の山形県楯岡市)に林崎甚助重信という方が、父の敵を討つために、林崎明神に参籠すること一百日、満願の夜、夢中に一老翁現われ、刀術の妙を授けられて以降、代々その刀術が受け継がれ、第七代長谷川主税助英信という時の大武芸家の改革を経て、第九代林六大夫守政が土佐藩第四代藩主山内豊昌公にお目見え(延宝三年:1673年)し、土佐藩に英信流が根付いていきました。

その後、土佐藩のお留流となり徳川末期までに変化があり分派し、同じ流派でも時代によって変化のあったことは事実であり、また、徳川の終わりから明治の中期まで居合ができなかった時代(廃藩置県、武士の解職、廃刀令の公布等)があり衰亡の一歩手前にあったものを何とかして復興させたいとの願いから、その時代にふさわしい様工夫されたこともあり、名称の変化も加わり、この意味においては古伝との間に相違の生じたことは見逃せないその時の自然の勢いであったと思います。

私ども誠之館兵庫道場では、そういった流れも承知しながら、その渦中にあった第十七代大江政路先生から政岡壹實先生に、政岡壹實先生から野田亨先生へとその道系が継承された一つの流れの中で、土佐英信流居合の稽古に励んでいます。

現在は、野田亨先生の後を氏原俊一、森岡三朗両先生方が継承されています。

天の巻と地の巻について

写真左が天之巻で、昭和32年初版。昭和35年改訂再販。昭和43年増刷発行となっています。著者は、政岡壹實先生で、一般作法から奥居合、大江先生が形として常に指導されたものまで簡略に書かれています。
昭和35年の改定再販は、大江先生の頌徳碑建立資金調達のためと記され、その後、顕彰碑建立委員会が設立され全国の有志から寄附が集まり、昭和六十一年に高知県立五台山公園紅葉の段に大江正路先生の顕彰碑が建立されました。
写真右が地之巻で、著者は同じく政岡壹實先生です。昭和49年初版。平成16年に第四版となる復刻版が発行されました。この地之巻は、天之巻をさらに詳しく解説されたもので、誠之館兵庫道場はこの地之巻に基づいて稽古に励んでいます。

(左)天之巻 (右)地之巻